20080809

 


プライベート サーファー/UA (Video Clip) - YouTube

 

マスターナラティブ。神、ユートピアイデオロギー等、皆がそれに巻き込まれており、その価値観を共有していると信じるに足る筋書きを提供してくれるもの。

これにより個人や全体の行動・思考を方向付けられ、人はこのもとで、無意識のうちに自分の行動を正当化している。 

ポストモダン論によって使用された言葉。大きな物語の崩壊によりポストモダンと呼ばれる社会構造が生まれたとされる。

大きな物語とは - はてなダイアリー

 

 『大きな物語の崩壊』『大きな物語の終焉』こんな言い回しが日本の低脳のあいだで溢れている。思考することに怠惰な輩が大好きなフレーズだ。日本の無能な言論人崩れどもはポストモダンを思考停止の号令のようにもてはやし、知りもしない物語の崩壊を字面で理解したつもりになっているのだが、彼らが物語に対峙する勇気がないだけの野蛮人であることは明白である。なぜなら彼らはそこから何年も論を進めることができていない。低迷する彼らに共通するのは思想や哲学や物語や宗教に対する態度だ。彼らはあくまで受動的にそれらを概念として把握するにとどまる。ようするにそれは説明された文字列をただ覚えようとするだけの行為であり、彼らの知的活動というのはせいぜいその文字列に対する感想を述べるのがやっとといった様子だ。なんというか、勉強と言えば試験で点を取るための訓練だと叩き込まれて育ってきた知的奴隷のなれの果てというのはあわれなものだ。

 

 彼らの頭の中にある概念はすべて何かの引用だ。己の頭脳で独自の概念を構築するという作業ができないのだ。そのくせ、概念を構造的に把握する能力に欠け、すべて主観的視点で捉えようとする。そして決して実践しようとしない。概念的理解と実践の違いを体験したことがない者の典型的な態度である。彼らはあたかも物語一般というものが存在しそれがあるとき一斉に崩壊した様子を見てきたかのように語る。字面が与える最も安易なイメージに観念が支配されている。一番初歩的な言葉の罠にはまっている。日本人は主観で物語を捉えようとしたり、捉えて、解った気になったりしているが、それはあなたの貧弱な概念世界内の物語に過ぎない。

 

 物語は彼方からあなたを観ている。それがあなたの人生と物語との構造的関係だ。

 

 

 

私小説は亡びたが、人々は「私」を征服したらうか。

私小説は又新しい形で現れて来るだろう。

小林秀雄「私小説論」)

 

 

 

 

われわれはこう問わねばならない。

物語は亡びたが、人々は「物語」を征服したろうか、と。

柄谷行人日本近代文学の起源」)

 

 

 

Masquerade 仮面とベール - マ儿コの日記 - + - +

http://marcon.g.hatena.ne.jp/Marco11/?word=%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB

 

 私は不勉強で本を読まない直観人間なので、哲人たちの言葉の極みを切り取って並べてくれるd:id:kagamiさんのようなブロガーが何よりの先生であり、教科書だった。小林秀雄柄谷行人も読んだことのない私に、その核心を突きつけてくれたのは「ロリコンファル」という偉大なブログだった。とても感謝しています。

 

 様々なコンテンツにみられるイヤボーンという手法を知ったのもロリコンファルだった。

典型例

いたいけな美少女がピンチに陥り『イヤァアア!』などと叫ぶと、潜在的に眠っていた「“能力”」が目覚め、ボーンと大規模な爆発・または敵の頭部が吹っ飛ぶ、などの現象が起こり、美少女は危機を脱する。

この表現により、いたいけな美少女が、実はエスパーであったことが視覚的に理解されるのである。


表現の応用

この法則の適用範囲はエスパー漫画に限らず、様々なフィクションにおいて絶体絶命のピンチを乗り越えるため、あるいは展開を盛り上げるために使用される。

この法則を広く捉えるならば、キャラクターもいたいけな美少女には限定されない。

主人公などのメインキャラが都合のよい『覚醒』をして一気にピンチを覆すとき、そこには「イヤボーンの法則」が働いているといえる。

イヤボーンの法則 - Wikipedia

天才と独創性の概念の現代的な例を挙げれば、オタク作品の多くには「イヤボーン」と呼ばれる法則があります。これは、何にも能力がないように見えるキャラクターも、その対象のキャラクターが追い詰められると、そのキャラクターの内在する秘められた力が覚醒(イヤボーン)して、そのキャラクターは超常的な力を発揮できると考える。これなんかは、近代の天才と独創性の概念が極めて突飛な形で現れているものだと私は思います。イヤボーンによって、突然、神の力(無から有を産み出す力)を手に入れてしまうわけです。霊感幻想や超能力幻想にも、同じような要素が働いている…。


でも、人間は、人間なんです。人間は、無から有を創造することはできない。人間は決して神ではない。何の努力もせずに突然凄い力が手に入るとか、そんなご都合主義的な内在する神の力の現れは決して起こらない。人間に出来るのは、ただ、自ら学び、鍛錬し、努力し、自らの最善を目指すことだけです。そしてそのときに、人間と断絶した、人間の在り方を超えた、神を想い、違いを感じ(敬虔)、なお憧れることは、人間が自らを高めようと努力するときの、大きな力となってくれると思う。それは、人間と神との違いを認識(グノーシス)し、その上で、努力することです。

ロリコンファル - 近代について -個人の神話と敬虔の失墜-

 

ポストモダンファシズムという「社会」の雰囲気をかんじはじめ、それが「社会イズム」からもたらされている全体主義の兆候であると発見し、個人が存在し得なくなっていく、プライベートなものが忘れ去られていく結果をうみだしているところから、不能化を一歩踏み出した「不能化の意志」が主体的に出現していること、そういう担い手の実態が出現しているだということを、学生の動向からみつけた。

ポストモダンファシズム現象は、学生が教えてくれた、学生に現出したものだ。そこから、注意深く社会をみていくと、見えなかったものがみえてくるようになった。

ホスピタリティの場所【山本哲士公式ブログ】hospitality/place/capital| ポストモダン・ファシズムと不能化の意志